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1710年6月、Georg Fiedrich Handel(1985-1759)はイタリア遊学中、ドイツのハノーヴァー選帝侯の宮廷楽長に任命された。しかし、ドイツに戻った彼はハノーヴァー宮廷に落ち着くことなく、11月にはロンドンに渡ってしまう。その後何故かイギリスに腰を据え、ロンドンでイタリア式オペラの作曲と普及に心血を注ぐことになる。1703年、運命のいたずらかイギリスのアン女王が亡くなり、次は何とドイツのハノーヴァー侯がジョージ1世として王位に就くことになった。やがてイタリア語で歌われるオペラはイギリス人には受け入れてもらえないことがわかり、ヘンデルは英語のオラトリオ(聖譚曲)を書き始めることになる。
1741年の春、ヘンデルはそれまでの彼の輝かしい人生の中ではもっともつらい、言わばどん底といった状態にあった。41年2月23日、彼が56歳の誕生日を迎えた時には、イギリスでもっとも実現したかった理想的なオペラの展開は完全に頓挫し、経営者としても最早どうにもならないところまで追い込まれていた。ヘンデルは「デイダミア」の作曲を最後にオペラから完全に手を引かざるを得なかった。4年前、脳卒中で倒れた後も、彼は後遺症に苦しみながらも果敢にオペラの再建に腐心してきたのだった。
当時のイギリスは、スペインとの戦争(ジェンキンスの耳戦争)そしてオーストリーの王位継承戦争にまで巻き込まれ、国自体が余裕を無くしていた。人々の生活からゆとりは消え、当然オペラは庶民とは遠い存在になり、ヘンデルの努力は水泡に帰してしまったのだ。
そのころ、彼を長年支え続けてきたパートナーの台本作家、チャールズ・ジェネンズがオラトリオの台本「メサイア」を送ってきた。これはすべての言葉を聖書の中から引用するという画期的なもので、普通のオラトリオとは全く異なった台本だった。すべてに意欲を失っていたヘンデルは、最初この台本に興味を示さなかったらしいのだが、ここでまた、新しい偶然が訪れる。
その年7月、アイルランド総督のウィリアム・カヴェンディッシュ卿(デヴォンシャー公爵)からダブリンへの公式招待状が届いたのだ。その依頼は、ヘンデルにダブリンへきて彼の作品を何回か演奏してくれるようにというものであった。さらにこの演奏会の純益は監獄の囚人救済資金に寄付される予定とのことだった。
ヘンデルは以前から捨子養育院のための慈善演奏会などに熱心であった。そのころ飢饉にあえぐアイルランドの一般庶民が借金の返済が出来ず囚人となり、フォーコーツ監獄の中で奴隷のような生活を強いられ、最近2人の死者が出たことがロンドンの新聞で大々的に報じられたばかりだったことから、ヘンデルはアイルランドの惨状に関心を持っていたらしい。彼はすぐにこの丁寧な招請状に承諾の返事を出し、ダブリンでの演奏会の準備に入ったと思われる。
アイルランドではもともと大部分の人々がカトリック教徒であったが、イギリスの支配下にはいるとイギリス国教会と対立する立場にあるカトリック教徒は弾圧され、土地は没収、大学進学の道は閉ざされ、不平等税制を課されるなど不当な迫害を受けていた。そこへさらに飢饉が追い打ちをかけたものだから、一般庶民は悲惨としか言いようのない状況の中で喘いでいた。ヘンデルはこのような国民のために「憩い」と「救い」をもたらす作品として、ジェネンズのオラトリオ台本「メサイア」が最もふさわしいのではないかと考えた。これは自然な流れとも言える。
メサイアの作曲を決断してからのヘンデル行動は早かった。8月22日にペンを取り、1週間ごとに第1部、第2部、第3部と書き上げ、9月12日にはこの大作を完成している。それは久しぶりで作曲に取り組んだ彼の情熱と意気込みが表れているとしか言いようがない。この日程に関しては、スコアに彼自身が8月22日土曜日、第1部終了28日金曜日などと明確に書き入れていることから疑う余地がない。もっともこの後オーケストレーションのために2日を要したと言われているが、これも驚異的な早さである。
この作曲によってヘンデルは完全に元気を取り戻し、すぐに次の作品に取り組む。それはオラトリオ「サムソン」で、これも1ヶ月で完成させている。それが終わると早速アイルランドに向けて旅立つたのだが、これが4年前に脳卒中で倒れ、未だ後遺症と闘っている人の行動と考えることは難しい。
翌1742年4月13日、ダブリンでの「メサイア」初演が大成功をおさめたことは周知のことである。
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